たった1人の教え子の話
これは今から5年前の話。
当時、僕は大学3年生だった。
来年から就活が始まる。
就活はお金がかかると聞いたから何かアルバイトをしようと思って色々と探していると、家庭教師のバイト求人が目に入った。
時給2000円!
こんなに貰えるのか!?
速攻で履歴書を書いてバイトに応募した。
幸いにも採用されて僕は家庭教師になった。
「生徒が決まったらまた連絡しますね」と言われ、その数日後、家庭教師の会社から連絡があった。
「あなたの生徒は高校2年生の理系の女の子です。来週からよろしくお願いします」
その会社の基本方針では家庭教師と生徒は同性でなければいけないらしい。
ただ、僕が彼女の希望する大学に通っていて、同じ理系だったこともあり、生徒も生徒の親も了承したとの話だった。
中学生の男の子とかに教えるのかな?
と思ってた僕は高校2年生の、しかも女の子に家庭教師をすることになるなんて思ってもいなかった。
慌てて高校の参考書を読んで復習したり、今の女子高生の中で流行っているものを調べたりした。
そして、迎えた初授業の日。
彼女の家は大きな一軒家だった。
裕福な家庭なんだろう。
玄関に飾ってある絵からそれが伺えた。
教育熱心そうな母親に挨拶をしてから生徒の女の子と対面した。
彼女の名前は「まゆ」
第一印象は大人しそうな子。
身長はやや低めで、肩くらいまで伸びた黒髪。黒縁の眼鏡。
よくいる理系の女の子だなあとも思った。
「今日からよろしくお願いします」と僕が挨拶すると、彼女も小さな声で
「よろしくお願いします」と返した。
礼儀正しそうな子で安心した。
和室に通され、授業を始める。
まずは彼女がどのくらい勉強ができるのか知る必要があった。
直近の模試の成績表を彼女から見せてもらった。
第一志望 ◯◯大学 理学部 C判定
なるほど。
高校2年生の秋でC判定ならこれから頑張っていけば合格できる可能性は充分にあると僕は思った。
ただ、化学の成績が足を引っ張っているのが一目瞭然だった。
「まゆさんはもしかして化学があんまり得意じゃない?」と僕が聞くと
「はい……ずっと化学が苦手で、他の理系科目はそれなりにできるんですが……」と答えた。
「じゃあまずは化学からやっていこうか!苦手科目は伸び代だからね」
僕は化学を初めに教えることにした。
週に1回2時間の授業でどれだけのことが伝えられたか分からなかったけど、まゆの化学の成績はそれから少しずつ伸びていった。
季節は秋から冬に変わっていた。
寒さに震えながら、まゆの家に行くと
「先生〜!こないだの模試で化学の成績が伸びたんですよ!先生のおかげです」とまゆはニコニコしながら僕に伝えてきた。
「いやいや、まゆが頑張ったからだよ」と僕は答えた。
いつの間にかまゆは僕を「先生」と、僕はまゆを「まゆ」と呼び捨てで呼ぶようになっていた。
成績が伸びたまゆはいつもより機嫌が良さそうで
「ねえねえ!先生は最近大学で何やってるの?大学内のオススメの場所はどこ?」などと大学の話を聞きたがって僕を質問攻めにした。
模試の成績もB判定に上がっていた。
何もかもが順風満帆だった。
そして、春が来た。
僕は大学4年生になり就活が始まった。
元々大学院に行く気はなくゆるい研究室に入った僕はガッツリ就活を始めた。
まゆは高校3年生になった。
授業に間に合わなさそうな時には
「悪い!ちょっと説明会が長引いて授業行くの30分遅れる」とまゆにLINEをした。
「わかった!」と返事が来た。
「先生のLINEを教えて欲しい」とまゆから言われた時はあくまで先生と生徒の関係なのにLINEの交換をして良いのか、とも考えたが、今となってはこういう時に連絡ができるから交換してよかったと思える。
「先生〜!遅いよ、遅刻遅刻!」
まゆはすっかり僕に敬語を使わなくなり、笑顔が増えた。
こちらとしてもその方が授業がやりやすくて助かっていた。
まゆの成績は良い感じで第一志望の僕の大学でB判定、たまにA判定を叩き出していた。
「もっと上の大学も狙えるんじゃないか?」とまゆに聞いたが
「私はやりたいことができる大学に行きたいの!」と話していた。
その通りだと思ったのでそれからは志望校変更の話はしていない。
「うわ!先生今日スーツなんだ〜珍しいね!」
「俺は就活生だからな。スーツくらい着るよ」
そんな話をしながら授業をしていると
「私は、先生ならきっとどこの会社でも入れると思うな」とまゆが言ってくれた。
しかし、就活はそんなに甘くはなかった。何社も何社もお祈りされ、自分は社会にとって不要な存在なんじゃないかと思い始めていた。
それでも就活を続け、やっと9月に内定が出た。
中小企業だったが、初めての内定で涙が出るほど嬉しかった。
まゆに内定が出たことを伝えると
「先生すごーい!!」と自分のことのように喜んでくれた。
その後、就活を続けてもう一社内定が出たが、最初に内定が出た会社に入ることを決めた。
そして、まゆと出会ってから2度目の冬が来た。
まゆにとって勝負の冬。
1月のセンター試験前最後の授業が終わった後に僕はまゆにお守りをあげた。
「普段通りにやればまゆなら大丈夫。応援してるよ」
「先生……ありがとう」と言うとまゆはギュッとお守りを握りしめた。
センター試験が無事に終わり、まゆは第一志望の大学に出願した。
まゆの成績はほとんど間違いなく合格できるラインに到達していた。
二次試験前、最後の授業
この日が正真正銘、最後の授業だった。
まゆは僕に
「先生、今までありがとうございました!これは帰ってから読んで!恥ずかしいから……」と言いながら手紙をくれた。
家に帰って手紙を読むと、まゆの綺麗な字で今までの感謝の気持ちが便箋4枚に渡って書き連ねられていた。
勉強で忙しいのにこんなものを用意してくれて……僕は少し泣きそうになった。
僕は大学卒業が確定し、春の香りがし始めた頃、まゆから連絡があった。
「大学合格しました!先生のおかげだよ!良ければ一度会って大学のこと聞かせて欲しいな」
「合格おめでとう!もちろんだよ。今週の土曜日はどう?」
「じゃあ駅前で待ち合わせで」
こうして僕のたった1人の教え子は大学に合格した。
僕まで嬉しくなった。
まゆと駅前で待ち合わせをしてからファミレスで大学受験の時のこととか、大学のこととかお喋りをした。
「水族館に行きたい!」と言うから水族館にも行った。
まゆは水族館にずっと行きたかったけど受験があって行けなかったらしい。
僕は合格祝いにイルカのぬいぐるみをまゆに買ったらとても喜んでくれた。
帰り道にまゆは僕に真剣な眼差しを向けて言った。
「先生、ずっとずっと言いたかったことがあって……私、先生のことが好きです!付き合ってくれませんか?」
まゆは顔を赤らめて俯いている。
「ありがとう。気持ちはとっても嬉しい。だけど、俺は来月から社会人で時間も取れなくなるし、異動とかもあるかもしれない。だからまゆとは付き合えない……ごめんね」
僕はそう返事をした。
「そっか……でも、言えてスッキリした!先生、社会人になっても頑張ってね!じゃあねバイバイ!イルカのぬいぐるみ大切にするね」
まゆはそう言って駆け出した。
僕はまゆを追わなかった。
その日の夜にまゆから
「今日はありがとう。水族館楽しかった。これからも頑張ってね」と連絡が来た。
「こちらこそありがとう。まゆも大学生活頑張って」と僕は返事をした。
4月から僕は社会人になった。
正直、想像以上のつらさだった。
毎日毎日疲れ切って帰宅して、何もできずに寝る。
起きたらすぐ仕事に行く。
覚えることは山のようにある。
せっかく覚えても突然やり方が変わる。
上司から何度も叱られる。
時には理不尽なことで叱られる。
すっかり消耗した僕は日々を生き抜くことで必死で大学の頃の思い出なんかほとんど頭から抜け落ちていた。
歯を食いしばりながら仕事を続けて4年目
に突入した時のこと。
つまり、去年の話。
一件のLINEが来た。
送り主の名前に「まゆ」とあって
僕は最初、誰だか分からなかった。
メッセージを開くと
「お久しぶりです先生!大学受験の時にお世話になったまゆです。就活が始まったので先生から色々お話聞きたくて連絡しました」
とあって、まゆの存在を思い出した。
何もかもが懐かしかった。
「俺で話せることなら教えるよ」と返事をした。
まゆ、背が低めで肩まで伸びた黒髪と黒縁眼鏡の女の子。
今は僕の出身大学の理学部に通っていて留年してなければ4年生のはずだ。
「ありがとうございます!じゃあ今週の日曜日はどうですか?」とまゆからメッセージが届いた。
日曜日、待ち合わせ場所で待っていると、現れたのは知らない女の子だった。
ゆるくウェーブした焦茶の髪に派手すぎないメイクをした女の子。黒縁眼鏡はかけていない。
めちゃくちゃ可愛かった。
「えっ?まゆ……?」思わず疑問系になってしまった。
「そうですよ!先生、お久しぶりです」
まゆ、めっちゃ可愛くなったな。
思わず喉元まで言葉が出てきたが抑えた。
喫茶店に入って、まゆはコーヒーを頼むと
「本当に久しぶりです!元気にしてましたか?」と言った。
話し方は確かに昔のまゆだった。
だけど、見た目が変わり過ぎているから別人と話しているような気分になる。
「あぁ、元気でやってるよ。まゆは理学部だったよね?大学院にはいかずに就活するの?」
「はい!実際に大学で勉強してたら思ったのと少し違ってて、就職しようかなって思っちゃいました。だけど、周りはみんな院にいっちゃうし、サークルの先輩も文系ばかりで……で、理系の先生のことを思い出したんです」
「そういうことね。あと、敬語はできればやめて欲しいかな。なんだかむず痒くて」
「あっ、そうなの!じゃあやめるね!で、先生は今どんな仕事してるの?」
キラキラした目でまゆは僕に聞く。
やめてくれ。
そんなキラキラした目で聞かれると真実を伝えにくいだろ。
「まぁ、なんだろ、製品の生産管理かな。理系だと結構そういうのが多いよ」
僕は当たり障りのない答え方をした。
「生産管理の仕事は私は候補に入れてるよ。ねえ、先生、よかったらほんとに時間があればでいいんだけどES見てくれないかな?」
上目遣いで信じられないくらい可愛くなったまゆに頼まれると僕は断れなかった。
それから、まゆと何度か会ってESの添削だったり、面接練習をやったりした。
まゆと会っている時に僕はつらい会社のことを全部忘れられた。
まゆのことを好きになっていく自分を抑えられなかった。
夏、まゆは第一志望の会社から内定が出た。
内定おめでとう会をしようと僕は持ちかけて、まゆと2人で居酒屋に行く約束をした。
この日に告白しようと思ってこっそりプレゼントのアクセサリーも用意していた。
「まゆ内定おめでとう!まゆと一緒にお酒飲んでるってなんだか不思議な気分だな。出会った時は高校生だったのに」
「ありがとー!そうだよね。変な感じ。私、また先生に助けられちゃったな」
まゆはそう言ってビールを飲む。
酔ってきたのか、まゆの顔が赤みを帯びている。
とても色っぽくて僕はドキドキした。
居酒屋を出て、駅までの帰り道。
夏の夜風を浴びながら、僕は告白をしようと決意した。
「てか、まゆに再開した時に本当にビックリしたんだよね。めちゃくちゃ変わってて。とっても可愛くなっててさ」
「えっ?嘘でしょー!あんまり変わってないと思うよ〜」
「いや、ほんとほんと!俺、実は仕事が大変でつらい気分の時も多かったけどさ、まゆと2人で会って話してる時は全部忘れて楽しく笑えてたんだ」
「だからさ、これからも俺と一緒にいて欲しい。」
顔から火が出るほど熱い。
「先生……ごめんね。実は私、去年からサークルの先輩と付き合ってて……先生とは付き合えないよ」
まゆはポツリと言った。
えっ?まゆに彼氏がいる?初耳だった。
「ごめんね。先生が私のことを女として見てないと思って、彼氏がいること話してなかった。そういうことなら話しておけばよかった」
「いや、大丈夫だよ。彼氏がいるのか!まゆが幸せそうにやってるなら俺はそれでいいんだ」
ギリギリのところで取り繕った言葉を吐く。
何が大丈夫だよチクショウ。何一つ大丈夫じゃねぇよ。
「あーあ、先生からその言葉をあの時に聞けたらよかったのに」
まゆは作ったように笑って言った。
3年前の春、2人で水族館に行った帰り道を思い返す。
「あの時のイルカのぬいぐるみ、今も家にあって大切に持ってるんだよ。でも、タイミングって難しいよね……先生も幸せになってね」
まゆは寂しげに言う。
「ありがとう、まゆも幸せにな」
そう言って、僕はまゆは別れた。
帰り道、夜風を浴びたくて二駅分を歩いて帰った。
僕は帰り道の途中にある川に用意したアクセサリーを捨てた。
アクセサリーの箱がゆっくりゆっくりと流れて見えなくなっていく。
日曜日の夜が終わり、また明日から仕事が始まる。
いつも通りに日々に引き戻されていく。
さよなら、まゆ。
僕のたった1人の教え子。
※この話はフィクションです。
実際の人物や体験とは関係ありません。本当に関係ありません。フィクションです。